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Chiropractic  健康はカイロプラクティックとともに 

Chiropractic 健康はカイロプラクティックとともに 

▼天 職 


予防医学のカイロプラクティック

WFC 写真

RMIT大学のサイトはこの字をクリックして下さい。

天職について 天職について 天職について 天職について 天職について

天職

この字の響きは、かなり心に響いてきますね。

私はこの天職を 求めてきただけかも知れません。

何時も、自分に合った仕事は何だろう?

自分は何を求めて 生きているんだろう?

どんな仕事をすれば、天職になるんだろう?

でも天職て なんだろう?

天が与えてくれる仕事なんだろうか?

神様が私に与えてくれる 印なんだろうか?

本当に 訳が判らなかった。

自分の天職だと気が付いたのは、やはりカイロプラクティックを見つけた時でした。

この仕事が 最後になる。

この仕事で 私の希望が叶えられる。

この道しかない。

私の心は何時も 求めていました。

それは、一体どうすれば 人を救う事が出来るんだろう?

人の心を救うには、何が必要なんだろう?

私には それが出来るのだろうか?

この様な思いを 追求するだけでした。

カイロプラクティックを勉強しだしてから、この仕事の大変さを 理解しました。

自分の頭では 簡単にこの仕事が出来ると、たかを踏んでいたからです。

でも私の弱い所が露呈して来ました。

それは簡単に 心で考えイメージして、物事をいとも簡単に出来ると思い込むところなのです。

実際にこの仕事を 自分のものにする事が出来るんだろうか?

このような心の不安だけが 何時も目の前に横たわりました。

しかしこのような心に、私は負ける訳には行かなかったのです。

それから二年後、目標を克服した私は 最初の学びの場を卒業しました。

でもそれだけでは とても心は満足しませんでした。

「まだこの程度で、このままではいけない。 もっともっと 上を目指さなければいけない」

この心のつぶやきを何時も胸の内に置いて、毎日を悶々と暮らしていました。

口コミだけでは、そう簡単にお客さんが来てくれるものではありません。

開業してからも当然色々な所に参加しては勉強し、技術と学問を伸ばして行きました。 そうしないとスキルアップは図れない仕組みになっているからです。

そして一番最初に目指した、カイロプラクティックの世界資格を取る目標が叶えられ、それに付随して考えもしなかった、RMIT大学の学士号まで授与されました。

最初に志してから、約十数年という月日が、何時の間にか過ぎ去りました。



「どうしてここまで来れたんだろう?」

その大きな原因は、第一に 「諦めなかった」 ということでしょう。

諦めなかったから、沢山の困難が来ても、逃げなかった。

逃げなかったから、原因を理解し、結果に怯えず、追及を怠らず、生きて来れた。

それが、「学士号」 を取得する道に来れたということでしょう。

これで一応 大学を二つ卒業したことになります。

自分でここまでやれるとは、実際、思ってもみませんでした。

別に『自分は偉いんだ』 と、自慢しているのでも何でもありません。

ただ、自分に誉めてやっているんです。

「本当に困難に負けないで、よく頑張って来たなー」、と。



天職というものは、自分自身がプライドや自信を持って、胸を張って仕事ができる仕事かも知れません。

そしてそれは何も、手に職をつけるという職でもないかも知れません。

自分が、『人を救いたい』 という心から沸き起こって出ている その気持ちも、天職かも知れません。

実際に行う仕事。

それが天職かどうかは、その仕事を行っていて、心から感謝が出来ることだと思います。

お金のためにするのは、又 違った意味かも知れません。

良い地位、名誉、そのような 形骸化した欲でもないと思います。

唐突に話は変わりますが、『あの世』 には何も持って帰ることは出来ません。 何一つ、この世にある物質も地位や名誉も 持って帰ることが出来ません。

ただ、オギャーと生まれてから死ぬまでの間の、考えや経験、思考を持って帰れるだけです。

地位も名誉も、ましてやお金も持って帰ることなど一切出来ないのです。 理由は簡単です。 次元が違うからです。

これを真実だと理解できる人だったら、だったらあなたは 一体何を求めて生きているのでしょうか?

私達には、人と人との関わりの中で、人としてどの様に生きるかが、真剣に問われているのではないでしょうか?

私という生命がここまで来れたのも、私の女房が、亡き両親が、頑張ってくれたからです。

そして子供達が、生まれて来てくれたからです。

この愛情がなければ、今の私は在りません。 存在していません。

人類愛も無ければ、私は存在していません。

本当に、感謝する気持ちだけで 生きて行きたいと願っています。



この肉体を持って生きる人生には、どういう理由があるんでしょうか?
それには「あの世」 という世界、「四次元以降の世界」 を理解しなければならないでしょう。

殆どの人は 「あの世」 の事を本当は理解したいと、思っているのではないでしょうか?

でもそれを「恐ろしい事」 「不吉な事」 「忌み嫌う事」 「嫌な事」 「縁起でもない事」 「そんな馬鹿げた事」 「在り得ない事」 等々と心の中で思っていないでしょうか。

本当にそうなんでしょうか?

その世界は「誰もが行った事の無い世界」 だと、勝手に解釈しておられないでしょうか?

本当に 誰も行く事が出来ない世界なのでしょうか? 

意識全体の数パーセントしか表に現れていない「表面意識」(自分の意識、考え) で理解することができないがために、『そういう事は判らないから、そんな事は現実的に在り得ないこと』 として、心の片隅に片付けてしまってはいないでしょうか?

でも実際に「あの世」 が存在しているとしたら、貴方はどうしますか?

やはり「恐ろしい」 事だと、直ぐに考えをそっちの方向に持って行くでしょうか?

よく考えて下さい。そしてよく他の実例を見て下さい。

仮に「あの世」 が恐ろしい場所なら、どうして恐ろしい場所に帰るために、生まれて来るのでしょうか?

それなら最初から生まれて来る必要は 無いのではないでしょうか。

勿論この論理には、「人および全ての魂は、あの世から来ている」 という考えが必要ですし、受け入れ態勢がないと考えることさえ難しいでしょう。

そして肉体は「仮の宿」 「その魂を受け入れる生命力のある構造物である」。 

この様な考えが、全く真実な事実として、認識する必要性があります。

どの様に否定されようと実際にそうなっているから、「あの世」 が天国であり地獄であると言うことは正しいでしょう。

ただ良く考えて欲しいのです。


「地獄」 は人間の意識が創り出した暗闇の場所としたら、それはどういう意味を持っているのでしょうか?

「天国」 は善良なる魂達の住む光で満ちた場所としたら、それはどういう意味を持っているのでしょうか?

これらを良く考えてみてください。

「天国」 が心の善良な魂の住む場所としたなら、貴方はその場所で住みたくないでしょうか?

それとも、心を汚した、人を人とも思わず、お金や地位や名誉を重んじて生きて来た、そして人を助ける事無く、人を騙し、人の心を苦しめ、悲しみを与え自分の事だけを、自分だけの繁栄を考えて来た魂の拠り所が「地獄」 としたら、貴方はその場所で住んでみたいでしょうか?



人の心の中に、「天国」 も「地獄」 も存在しているとしたら、貴方はどちらを選んで、自分はどちらの方向に行くのだろうかと考える余裕は無いでしょうか?

そうこの三次元の肉体、物質次元のこの世界が、自分で考え行動し、そしてその方向性を自分で決定付けることが出来る世界だとしたら、貴方はどの様にこれからを生きて行きたいでしょうか?

でも貴方は、「死んでしまったら何もかも無くなって、意識なんて存在する事は在り得ないのだ」 と、理解し続けるとしたら、貴方が死亡して魂となり、自分の意識が消滅する事が無い事をその時理解したら、判断したら、何と思うのでしょうか?



「私は生きている?」 そう思うことが出来るかも知れませんね。

肉体は確かに死んでいる。 呼吸をしていない。 でも私は生きている。

この事実に 眼を向ける事は可能でしょうか?

そう思えることが果たして可能でしょうか?

日頃、「魂は永遠である」、 「魂は死ぬ事は無い」 と、理解出来ているのなら、きっと貴方はその時になって死んでいる事を 本当の意味で理解出来るでしょう。

なぜなら、死は魂が永遠である事を証明する事象だからです。

ゆえに人は その時に心が安らぐかそうでないかで、方向性が決まってしまうのではないでしょうか。

だからこそ、この生きている時間の中で、空間の中で、自分の問題を解き明かして行かなければ、自分という存在を打ち消してしまう事にもなりかねません。



自分という存在は決して小さなものではありません。

これもおいおい心を理解していく段階で、物事がはっきりと把握出来てきます。

「あの世」 と「この世」 を充分に把握され、しっかりと「この世」 を生き抜くことで、自分の心の問題の多くを解決して行く事になります。

「この世」 は、魂にとって卒業試験だと言われます。

私もそうだと思い、そのように信じています。

そして学校の試験と 何ら変りがないと感じています。

ただ善良なる心で、神様とともに 一生懸命生きているかどうかなのです。

自分の弱さから逃げずに、しっかりと現実を把握して、その意味を理解して、生き続ける中にその答は存在しています。 ただ私という存在は、その様に感じ信じている者の一人にすぎません。


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